もなおという字は・・・

ぼんそわ~!
みなさま、どんな週末をすごされましたでしょうか。
がっつり鼻水ジュレのもなおです。
超ジュレジュレです。

・・・フレンチの巨匠、ごめんなさい。


さて。あの日から一年。
私にとっても、怒涛でした。
卒業、就職、東京から大阪へ大移動。
震災、原発、節電に対して、
東京ー大阪間でさえも、明らかな温度差を感じずにはいられません。
「震災に対して、なにかアクション起こした?」と質問して返ってくる、
「しなかったねー。」
という過去形の返事が、
アクションを起こさなかったこと以上に悲しいです。
やっぱり、すべてのことは風化してゆくのでしょうか。

日本の大きな地震で、私が物心ついてからの3つを振り返ってみました。

1995年、阪神淡路大震災。
もなおママは神戸出身なんです。
震災当日、朝、おじいちゃんおばあちゃんちに電話しても通じなくて、
それで、家がばたばたしてたから、学校に遅刻したの。
小学2年生、人生で初めて遅刻した日。
そしたら、「あんたと地震と遅刻は関係ないでしょ!」って、
担任の長田先生にすごくきつく叱られたの覚えてる。

おじいちゃんおばあちゃんは無事だったんだけど、二人の家は全壊した。
もなおパパ&ママが大阪から神戸まで歩いて、
壊れた家を片付けに行った、って話は何度も聞いたし、
おじいちゃんおばあちゃんがいろんな人に助けてもらった話もずっと聞いてきた。
途中、尼崎の知人の空き家に疎開させてもらってる時も、遊びに行ったりして、
そこには、これまで近くにあった商店街とは違う、駄菓子屋さんがあったりして楽しかった。
がれきが撤去されて、更地になったのを見た時、
おじいちゃんとおばあちゃん、それからお母さんがちょっと涙ぐんでたのは覚えてる。
でも今はもう、私も、昔の家がどんなだったか、断片的にしか思い出せない。
でも、本当に、二人が今も無事でよかった。

2004年、新潟県中越地震。
その年の夏、ちょうど地元の県の教育委員会(?)主催の、
高校生の「防災ボランティア研修」というのに参加していた。
そして起こった大地震。
変な言い方だけど、とてもタイムリーで、その参加者の中から数名、
新潟の高校生と交流できるということで、ちょっとした好奇心で申し込んだ。
ガールスカウトだったし、生徒会だったしね。
ふふふ、優等生っぽいでしょ?笑
深夜、県下10校くらいから集まった20名くらいの高校生とバスに乗り込んで向かった。
それはそれは雪が深くて、とてもとても寒かった。
他校の生徒が、半ば遠足気分なのにすごくイラッとしたのを覚えてるけど、
きっと傍目から見たら、私も一緒だったんだろう。

ここで学んだのは、
「新潟の女子高生は日本で一番スカート丈が短い」ということと、
(現地の校長先生が、「週刊誌に載ったんだ、がはは!」って自慢げに話してた!笑)
「ボランティアしてあげてる、ではなくて、
ボランティア『させていただいている』という気持ちで臨まなければいけない」という、
小千谷西商業高校の先生の言葉。
それまで「ボランティア」という言葉に陶酔すらしてたので、
とにかく目が覚めるような思いだった。
さらに、ここで出会った小千谷の高校生とは、
大人になった今でもしっかり連絡を取り合ってるから、おもしろいでしょ。

2011年、東日本大震災。
この日、私は就職も決まって、卒業旅行から帰ってきたてで、
あとは卒業式で写真を撮るだけだーって浮かれた気分で、
春から別の広告会社で働く友達と渋谷で遅めのランチを食べてた。
そしたらぐらぐら。
すごく長かった。On the Cornerという、角にあるカフェにいたんだけど、
おしゃれな照明がぐわんぐわん揺れて、やばいね、ってなって外に出たら、
地面が波のようにうねっているのがはっきり眼で見れて、
目の前の公園は電話がつながらない人であふれかえってて、
隣のビルが、今までいたビルに接触しそうなくらいねじれてた。
道端にある電気屋さんやカフェのテレビで状況を確認しながら、
渋谷から早稲田の大隈講堂まで、今の同期と歩いて帰って、
その晩は大隈講堂に泊った。
巨大スクリーンには、NHKが夜通し映し出されていて、
余震のたびに浅い眠りから覚めて目に飛び込む、そのスクリーンの
闇の中、燃えて、ゆっくりと流される家々の画は、
ナウシカのオームの大移動か、何かの映画にしか見えなかった。
幸い、友人で被災した人はいなかったけど、
東北の友達全員に連絡が取れたのも、結局1週間くらいかかった。
日が明けて、アシスタントとして住んでた留学生寮に戻って、
寮長さん寮母さんと、輪番停電の話とか、留学生の帰国の話とか、
自分も不安だし、留学生のもっと不安な気持ちもわかるし、もうほんといっぱいいっぱいだった。
緊急地震速報のあの不協和音を聞くと、今でも鳥肌が立つ。
卒業式は中止になった。仕方なかった。

しばらくして、いろんな人が、いろんなところで立ち上がって。
サークルの先輩が南相馬市出身だから、せめてもの物資を調達したり、
仲間が作るネットワークに寄付をしたり。
直接的な知り合いの輪に加えて、ツイッターで拡がった繋がりで、
いろんな人が展開する世界を見せてもらえるようになった。
それでも社会人としての生活はフツーに始まって。


他にも、2004年ハリケーン・カタリーナだったり、
2007年ミャンマーをサイクロン・ナルギスだったり。
でもやっぱり、自分自身が被災してないと、
身内が関わってないと、どんどん忘れて行ってしまう。
はう。
ほんと視野、狭いぜ。

でね、この3つのことを振り返ってはっとしたことがあるんです。

「知ってる人」を通じて私の世界が広がってきた/広がってきてる、ということ。
阪神淡路大震災では家族、
新潟県中越地震では、学校を中心としたコミュニティ、
そして、今回の東日本大震災では、所属を超えたつながりが、
私の視野を広げてくれた。
世界と、自分の中身がつながっていく感じを味わえた。
人に育ててもらってる。
人の間で、生かしてもらってる。

広告会社ではよく言われる「自分ごと化」。
つまり、「当事者意識を持つ」ということ。
これって、本当に難しいことだと思うんです。
とくに自分にその体験がないと。
それに似た味を知らないと。
そこに知り合いが関わってないと。
想像力には限界があるし、
目の前においしいチョコレートがあれば飛びついちゃうし。

だって、だってね、今、
アフリカの子どもを助けて!って言われても、
ピンとこないでしょ。
これをピンと来るものにしたいんだー!なんて、就活の面接では言ってたなあ。

てか、このブログ、こんな真面目なネタばっかなの?!
ちがうよ~
げらげら笑える部長のレジェンドとか書くんだよ~?笑


まあ、何が言いたかったかというと。
今回の震災で、改めて、
みなさまのおかげで私は生かされているということを知りました。
本当にありがとう。
そして、これからもよろしくお願いします。

犠牲になってしまったすべての魂が安らかに眠れますように。
そして、残る私たちは少しずつでも前進できますように。
というか、前進します。

さ、明日は華の火曜日です!

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